彼と出会ったのは、私が二十歳前後のことですから、今から40年近く前のことになります。
当時の日本では、街中で外国の方を見かけるのは珍しく。どちらかといえばテレビの登場人物と言えるのでした。
その頃の私は自動車関係の仕事をしており、自動車の引き取りに、地方の小さな駅へと出向いた時です。
駅の近くで、たどたどしい日本語で話かけてきた方がいたのです。それが彼になります。
聞けば、そこからかなり離れたところまで行くというので、私は引き取った自動車で近くまで乗せて行ってあげる、と申し出たのです。本当はいけないことなんですけどね。好奇心や気の毒に思う気持ちが優ったのでした。
そのような気持ちになったのは、その方の見た目でした。顔立ちや背格好は我々日本人と変わらず、年齢は私よりも少し上か、同年代。そして何より、気が小さいように見えたため、悪いことをしなさそうに感じたのです。その道中に話をしたのですが、その内容が今でも思い出してくるのです。
私が「どこから来たの?」と尋ねると、「中国の上海」からだ、と。上海から仕事のために、日本へ来た、とも。そして俯きながら、悲しそうに辛そうに「帰りたい…、帰りたい…」とだけ、何度も呟いていたのでした。
私は歴史が好きでしたから、戦争で中国の方に日本人が酷いことを、少し知っていました。上海にはそのような歴史を残そうとする、博物館などがあることも。
そこで、私も勇気が必要だったのですが、思い切って訊ねてみたのです。「日本に来るのは怖くなかったの?」と。「だって、日本人は戦争で中国に酷いことをしたでしょう?」とも。
すると、彼は理解できないようでしたので、私は中国の方とは筆談ができる、と思い出し、紙に漢字で「太平洋戦争」と書いたのです。すると、彼の表情がパッと明るくなり、「1935~45戦争」と書いて返したのです。
その時初めて、私達にとっての第二次世界大戦や太平洋戦争と呼ばれているものは、アメリカとの戦いだけしか思い浮かばないものの、中国の方には十年に亘る戦いであった、と認識できたのでした。
そして、私の日本へ来るのが怖くなかったのか、という問いかけには、しばらくうつむいて悩んでいたようでした。それから突然に顔を上げ「日中友好!」と叫んだのです。
その叫びを聞いた瞬間に、私が子供の頃に、度々目にしたテレビや新聞の光景が頭に浮かんだのです。
それは、日本の田中角栄と中国の周恩来が一緒の情景です。日中の国交回復は、私が8歳のことです。それから盛んに、中国の話題が日本で報道されたような記憶があります。
彼の一言には、歴史は現在にも続いていることが実感できて、とても嬉しくなったのでした。
彼とは、それ以来会うことはありません。あれから、私は山崎豊子「大地の子」を筆頭に色々な書籍を読み、彼が大変な苦労をして日本へやってきており、どんなに苦しくとも故郷へは帰れない事情も理解できています。
日本と中国は長い付き合いがあり、多くの文化を共有しています。今では、インターネットにより、日本の片隅の私にも同じ趣味の中国の方が、幾人も友人になっています。
近い人間関係では、細かい事柄の違いが気になるものです。報道では、そのようなものを多く取り上げています。しかし、わざわざ大きく扱うのは、どうにも間違った方向へと導いているようにしか思えません。
現在は、なかなか耳にしない言葉になってしまいました。それでも今こそ、この言葉を口に出してみませんか?