日本は為政者の身勝手な野望により、後漢から清国まで約2000年間に亘って様々な分野で教えを乞うた大恩師たる中国に、甲午戦争から太平洋戦争までの50年余り、危害を加え続けました。このことから、日中国交回復後50年年を経た現在でも、両国の関係はぎくしゃくしたままです。 小生は黄檗宗大本山万福寺の一末寺、大覚山祥光寺の住職を務めております。本宗は、1592年に貴国の福建省で生まれ、1954年にご老体に鞭打ち渡来された隠元隆琦禅師を開祖としております。
本年は奇しくも、禅師の350年大遠忌の年にも当たります。小生は大遠忌と日中国交回復50周年との両方を記念して、『黄檗山万福寺歴代住持並びに高僧奉賛漢詩集』を自費出版しました。
小生は中国との関係が深い黄檗宗に席を置いている関係上、かねてより日中関係の現状を憂いており、関係改善の祈り続けております。本書では、中国の方々が宗祖よりも遥か昔に、偉大な孔・孟・老・韓非子等を輩出した国であることを自覚された上で、国際法を遵守し、世界から一目を置かれる国に変わり、同時に、日中関係改善に向けて努力してほしいという願いを込めました。
小生は高等学校時代に、国語の一科目である漢文の授業で散文や詩に接して以来、漢文に親しみを持ち続けていました。その甲斐があり、縁あって瀋陽医学院を訪問した際に、筆談で現地の方々と意思の疎通を図ることができました。また、黄檗宗では、弟子の僧籍取得申請時の提出書類の一つに、弟子に対する期待を詠み込んだ1句の漢詩がありますが、余り苦労せずに作成できました。これらの経験が上記の漢詩集出版につながりました。
以下に、同書中または、黄檗宗編集・発行の文芸誌『瑠璃塔』に掲載された日中関係改善の願いを込めた七言絶句の8編を、読下し文付きで紹介します。尚、各詩は黄檗宗に関する人名または固有名詞を詠み込んでおります。
1)隠元隆琦(インゲン リュウキ:宗祖、中国福建省出身、教義の他にも多数の文物や技術を招来)
隠寂臨偲故郷街 故郷市街を偲ぶに臨み寂情を隠せり
元祖華人禅宗開 日本に禅宗を開きし元祖華人なり
隆々膨張発心夢 発心の夢は隆々と膨張し
琦抜新風送法崖 奇抜な新風を崖渕の仏法に送られたり
2)黄檗山万福寺
黄雖柔色遮紫外 黄は柔色と雖も紫外線を遮らん
檗門須断大衆哀 檗門は須く衆生の哀しみを断つべし
万霊仲介日中間 万霊は日中間を仲介し給う
福呼親交漢字界 幸福は漢字世界に親交を呼び込まん
3)十八羅漢像(万福寺所蔵)
十紀零災皆希求 十紀間の無病息災を皆希求せん
八道四苦被再修 僧により八正道及び四苦は再研修されるべし
羅列薬物傾発病 医師による薬物の羅列は新た発病に傾かん
漢西相扶疫加誅 東西両医学は相扶け疫病に天誅を加えるべし
4)千呆性侒(センガイ ショウアン:6代住持、中国福建省出身、長崎で
飢饉に際し、資産売却により施粥)
千年一瞬且無常 千年は一瞬で且つ無常なり
呆是可延以協調 呆け是れ人との協調で以て延期が可なり
性格温和公信任 性格温和で公方(5代将軍 徳川綱吉公)は信任されたり
侒心感激粥恩情 飢民は施粥の恩情に安心し感激せり
5)杲堂元昶(コウドウ ゲンチョウ:12代住持、中国浙江省出身、池大雅の画才発掘)
杲度観相掘大雅 高度の観相力で池大雅を発掘されたり
堂宇不可避劣化 堂宇は人と同様に劣化が不可避なり
元良にして公武二家の遠忌を勤められたり
長き世願わくは天皇家が続かんこと
註)公武二家:後水尾法皇と徳川綱吉公
6)大成照漢(ダイジョウ ショウカン:21代住持、中国福建省出身、最後の中国人住持)
大金名声難手中 大金や名声は手に入れ難し
成功王道莫追及 成功の王道を追及すること莫れ
照闇即衆憂要熱 衆生の闇即ち憂を照らすには熱意が要るなり
漢人山頭飾有終 漢人最後の山頭にて有終の美を飾られたり
7)獨旨真明(ドクシ シンミョウ:30代住持、日本山口県出身)
独自料理師持参 独自の料理を宗祖は持参されたり
旨味開発由檗山 爾来黄檗山より旨味が開発されたり
真効能茲癌化抑 真の効能は茲れ癌化の抑制なり
明精進即普茶餐 明国の精進、即ち普茶餐の優れるはこの点なり
註)普茶料理では動物油脂が多い獣肉を使わず、植物油脂と多種野菜を使う。便秘予防にもなり、特に、消化器系の発癌が抑制されると考えられる。
8)慈光通照(ジコウ ツウショウ:55代住持、日本三重県出身)
慈対衆生満愛情 衆生に対する慈悲は愛情に満ち
光明降下数無量 光明降下、数は無量なり
通商大事亜州圏 アジア圏における通商は大事なり
照暗闇如不夜城 日中間の暗闇を不夜城の如く照らすべし