昭和18年(1943年)秋に設立された龍烟鉄鉱所に、父が勤務していたので、私は5歳から7歳まで張家口市宣化区に住んでいました。城内から離れた広大な原野の中に建てられたレンガ造りの社宅に住まい、学校は城内にあり徒歩で30分以上かけて通いました。
昭和20年(1945年)8月15日終戦。その後ソ連軍戦車隊が侵攻してきたため8月20日に、天津へ脱出。芙蓉国民学校で2カ月間の収容生活の後、10月末に博多へ引き揚げました。
40年以上の月日が流れ、昭和63年(1988年)9月、ボランティアで河北北方医学院の日本語教師をされていた方とのご縁で、当時まだ外国人が入れない未開放区だった張家口市へ、招聘というかたちで行くことができ、子どもの頃住んでいた所を訪ねることができました。宣化区は歴史のある所で、鼓楼や鐘楼、古墳もあります。水母宮では植樹をしました。隣接の大同市にある中国三大石窟のひとつ雲崗石窟や、断崖絶壁に建つ懸空寺も観光しました。ちょうど粟の収穫の時期で、懸空寺への道路には刈り取った粟の束が並べられ、その上を車が通って脱穀する珍しい風景を見ました。
引揚者の会「日本張家口の会」を通じて交流ができ、会は、張家口市の新しくできた公園に、亭(あずまや)を寄贈しました。河北北方学院第一病院医学院の学生を兵庫医科大に留学生として招いたりもしました。平成20年(2008年)6月には、河北北方第一病院創立70周年記念行事に招聘されて参加しました。この病院の設立に尽力した日本人の初代医院長が、当時107歳で大牟田市に健在で、河北北方学院第一病院院長がお見舞いに来日され、大阪でも歓迎会をしました。
昭和が平成に変わる頃、義弟が上海で合弁会社を設立。ある時期、外国企業が中国から撤退した時に、逆に、中国にある小豆や小麦粉を使ってパン屋を起業し、小学校の門前で、餡パンを売り出しました。上海で最初のパン屋の餡パンはちょっとした流行りになりました。私の息子もそこで働きました。その後、電気製品の部品製造に転業。ちょうど中国は高度成長期で、会社は24時間操業しました。義弟は、収益を日本に持ち帰らず、その小学校にプールを寄贈し、上海市中山公園に日本から桜の樹を取り寄せ植樹、中国社員の雇用・福祉面にも尽力しました。中小企業としては珍しく白玉蘭賞を上海市より授与されました。
中国は、親族を大事にして義理を重んじる国なので、私が上海の会社を訪問すると、従業員の方に食事に招待してもらったり、社員旅行で成都のパンダの研究所や、九寨溝へも一緒に行ったりしました。九塞溝へは成都からバスで8時間かけて登り、途中、雪を戴くチョモランマの姿が見えた時、何と遠くへ来たものかと驚きました。
そして、会社の方々が研修で来日された時には、私の地元の箕面の滝や京都を案内し、また日本の着物は中国女性にも憧れで、家に招待して着物を着せてあげるととても喜ばれました。ショッピングには、自分では行ったこともない心斎橋の高級ブランド店にも足を運びました。私は中国語を忘れてしまい、ガイドブック片手に、筆談と身振り手振りで何とかなりました。言葉より心を開けば通じるものです。
その後も私が上海の息子宅に行くと、以前に、心斎橋を案内した方が、お粥の専門店に招待してくれました。大きな土鍋に海老のお粥がたっぷり。「余るくらい出すのが、中国の習慣ですから」と言われ、私は余ったお粥をお土産に包んでもらい、それを下げて豫園の賑やかな街を散策しました。持ち帰ったお粥は、息子宅のお手伝いさんにあげると、とても喜んでくれました。日本ではお粥は病人食のイメージですが、中国のお粥は全く違っていました。
今でこそ中国の人は、冷たい飲み物を飲みますが、30年前は、真夏に来られた時に冷たい玉露のお茶を出したら、手を付けられませんでした。息子に「熱いお茶か、コーヒーが良い」と注意されました。料理も温かい物が喜ばれます。手間暇かけて、日本伝統のおせち料理の様なものも作りましたが好まれず、何が美味しかったか尋ねると、厚揚げと小松菜を炒めた簡単な料理を褒められました。それからは中国の方を歓待するときは、肩ひじ張らずに鍋料理にし、特にフグ鍋は喜ばれました。中医学では、医食同源。躰には温かいものが良いので、私も温かい物を食べる様にしています。学ぶことは多いです。
揚子江北部の南通市出身の嫁は、上海へ仕事に来て息子と出会い、結婚し、子どもが2人います。上の男孫は6才の時、中耳炎の治療のため私が預かり、そのまま日本に住み現在中学3年生です。嫁と下の女孫は上海暮らしです。息子は、上海と日本を行き来し仕事をしていましたが、現在、コロナでままならず、一日も早い終息を待ち望みます。今は、ビデオ通話で、嫁や孫ともすぐつながります。私と中国の長い縁は続きます。これからも、一衣帯水で、近く永く、両国の良い関係が続きますように。