私は1937年、今の吉林省四平市で生まれ1945年、太平洋戦争終戦の年、小学校2年生でしたが、翌年の秋、一家で日本に引き揚げました。その後、成人し社会人となるにつれ、子どもの頃を懐かしく思うようになり、四平小学校の同窓会に入会しました。四平小学校は、1946年にその歴史の幕を閉じましたので、同窓会は卒業生に限らず、当時の在校生も受け入れていました。2年に一度の総会に出席し、先輩方との交流を深めつつ生まれ故郷四平を想いました。総会・懇親会のほかに同窓会では、四平市を主な目的地にした「中国訪問の旅」の企画もしていました。私はこの「生まれ故郷訪問の旅」に、1996年、1998年、2004年、2010年と4回参加しましたが、その都度、四平市は大きく変貌し、少年時代を過ごした当時の面影は徐々になくなっていきました。
中国への旅参加を計画した時、折角行くのだから多少の会話ができた方が楽しさも増えるのではないかと思い、地元の公民館で開かれていた中国語講座を受講し、講座閉講後、一緒に学んだ仲間と中国語同好会を作り、中国人女性講師の指導の下、週1回のペースで中国語に親しんできました。父親のそのような姿を見ていたためか、娘も中国語を学び始め、在住する岡山市で日中友好協会に加わり、今では中国語のレベルは私よりはるかに高くなり、中国語講座の講師を務めるまでになりました。嬉しいことです。
中国語の学習を始めてよかったと思うことは、もう一つあります。中国から働きに来日している研修生の人たちと言葉を通じて交流できることです。中にはこの機会に日本語検定に挑戦したいという積極的な人がいて、その受験勉強の手伝いをしたことも楽しい思い出です。
ところで、私には一つの願いがあります。それは、私たちの子どもの頃によく歌った愛唱歌を中国の子どもさんたちに受け継いでもらえないだろうかということです。その歌とは、四平小学校同窓会の懇親会でいつも必ず全員で歌う歌「わたしたち」です。日本ではほとんど歌われなくなったこの歌は中国大陸ならではの歌と言えると思います。「わたしたち」の歌詞は次のとおりです。
メロディーは覚えやすく、歌詞もシンプルなのですぐ歌えるようになります。しかし一つ問題があります。歌詞の終わりにある「満洲育ちの」という箇所です。しかし、ここを例えば「四平」、「瀋陽」、「長春」、「大連」などと置き換えれば、そのまま使っていただけるのではないかと思います。(別添1)
それでも、当時の日本人の子どもたちが歌っていた歌を歌うのには抵抗があるでしょう。そこで、小学校同窓会の先輩で、中国語に堪能な日高修吾氏に「わたしたち」の雰囲気を残したバージョンで「わたしたち」のメロディーに中国語の歌詞を付けてもらいました。(別添2)いかがでしょうか。
四平を想う時、いつも脳裏に浮かぶのは四季の移ろいです。四平の四季は特徴的でした。冬は子どもの世界。小学校の校庭に水を撒きスケートリンクを作ると、低学年は中央部で遊び、高学年は周回コースで滑りました。スケート靴を履けるのは小学2年からで、終戦で校庭が使えなくなったため、残念ながら私は学校のスケートリンクで滑ることはできませんでした。長い冬が過ぎる頃、必ず吹くのが蒙古風でした。遥かかなたの地平線が茶色に染まると、やがて生ぬるい風が吹き出して細かい砂を運びます。その砂はとても細かく、二重窓の隙間からも部屋に入ってくるのでした。蒙古風が過ぎると本格的な春が訪れます。猫柳の綿が舞い、杏子の花が咲き乱れ生命の息吹を感じます。夏の日差しは強烈でした。暑い一日が終わる頃、太陽は地平線に沈むのですが、その赤い大きい夕日は筆舌に尽くし難いほどの見事さでした。四平の秋は短く、石炭倉庫にペチカ用の石炭が運び込まれて、やがて長い冬が始まるのでした。
日本と中国の関係を語る時、「一衣帯水」と言う場合もあれば、真逆な「近くて遠い国」と言ったりします。歴史を振り返りますと時と場合によってどちらも当てはまる事象がありました。これからの両国の関係は、前者の関係でありたいものです。そのためには両国国民が互いに理解と交流を深め、尊敬しあうことが大切だと思います。