世界をつなぐ宇宙船のような福建土楼
2022年11月4日
私から見る中国
2022年11月4日
「私と中国」
(大阪城のこま犬との運命の
出会いと日中友好)

作者:伊関 要



                大阪城狛犬会

 大阪城の北西、京橋口から入って少し歩いたところ、西の丸北門の前に、高さ3mにもなる一対の大きなこま犬がある。傍らには、「中日友好万古長青 寄贈 大阪市 中華人民共和国大使館」の石碑が建つ。このこま犬との出会いが、私の人生における運命の出会いとなった。日中友好を我がライフワークにと、心に決めさせてくれたのが大阪城のこま犬だ。

 1982年の暮れ、大阪城のこま犬が、中国侵略戦争の略奪文化財であることが明らかとなった。当時、大学生だった私は、こま犬と心中する覚悟を固め、こま犬の返還運動に取り組む決心をした。運動経験豊富な年長の方に相談をし、仲間と準備を進め、翌1983年1月元旦、初詣客でにぎわう住吉大社のこま犬前での署名を皮切りに、大阪城のこま犬の中国への返還を求める署名運動を開始した。専ら街頭署名を中心に、およそ半年で15,000筆を超える署名が集り、大阪市に提出した。こま犬と言えば、日本の神社で普通に見られ、日本の伝統文化に溶け込んでいることから、神社の宮司さんを招いて大阪城のこま犬前で、「こま犬返還祈願祭」を開催したり、陳情や要請行動を署名活動と並行して行った。

 但し、こま犬返還運動は、一直線に順調に進んだわけではなかった。かつて帝国主義者が軍国主義をあおり立て、中国侵略戦争を引き起こし、2000万人に及ぶ中国人を殺害し、その血塗られた手で略奪してきたのが大阪城のこま犬だ。大阪城のこま犬の存在は、帝国主義者、軍国主義者の蛮行・悪行を白日の下にさらすものであった。「済んだことをぶり返すな」「(日中間)に波風を立てるな」などと、歴史隠蔽を図る勢力から猛烈な反撃があった。これに対し、「大阪を泥棒都市にするな!こま犬を中国に返そう!」「本物のこま犬は中国に返して、複製品を建立し侵略戦争・軍国主義への戒めにしよう!」「軍国主義復活反対!」を訴えて運動を推進した。結果、賛同の輪は日に日に拡がり、こま犬返還運動は大いに盛り上がった。

 こうして、大阪市が中国にこま犬返還の申し入れを行ったところ、中国政府から「こま犬返還の申し出は、日本人民の友誼の気持ちのあらわれ」だとして、「こま犬を改めて『友好の証』として寄贈する」との回答があった。私は、中国の寛大な態度に、感涙を禁じえなかったのを思い出す。1984年11月、当時の宋之光中華人民共和国特命全権大使直筆の「中日友好万古長青」の石碑寄贈と共に、こま犬贈呈式が執り行われた

 私が心中を覚悟してまでこま犬返還運動に取り組んだのには訳があった。それは、大阪城のこま犬に出会う直前の1982年の夏休みの体験だった。私は、北京にある革命軍事博物館を訪れた。そこで目にしたのは、中国侵略戦争時の日本軍による残虐行為の展示だった。目を覆いたくなるような展示に、私は一人の日本人として暗澹としたいたたまれない気持ちだった。その時、一人の中国人の男性の方が私に歩み寄り、「你是日本人吗?(あなたは日本人ですか?)」と中国語で語り掛けてこられた。私は思わず「すみません!」と日本語で答えて頭を下げた。すると、その方は(頭を上げてください)という手振りをしながら、更に中国語で語り掛けてこられた。私は、中国語は分からなかったが、語り口や態度から、その方の寛容に満ちた気持ちが伝わってきた。私は、溢れる涙を抑えることができなかった。

 北京の博物館での出来事が、私のこま犬返還運動に取り組む強い決意の原体験になった。再び侵略戦争を許してはならない。この一心から心中覚悟でこま犬返還運動に取り組んだのだった。こま犬返還運動に取り組んだ多くの仲間の努力と、広範な市民の支持の結果、大阪城のこま犬は、略奪文化財から友好の証へと生まれ変わり、中国の厚意に満ちた寛大なこま犬寄贈に、中国の平和を求める態度は本物だと確信した。この時、私は日中友好をライフワークにと決意したのだった。ひとえに、大阪城のこま犬との出会いが運命の扉を開いた結果だった。

 ところで、今、「中国の脅威」なるものがねつ造、喧伝され、「沖縄、琉球弧、南西諸島要塞化」「敵基地攻撃能力」などと、中国との戦争を準備する動きが顕在化してきた。こま犬運動に取り組んできた者として座視できない。中国は本当に敵なのか?!再び戦争を許すのか?!「日中友好こそは日本にとって最高の安全保障」とは、大阪城のこま犬が、現代の私たちに伝えるメッセージだ。再び侵略戦争の誤りを許さず、日中不再戦の決意を新たに、戦争ではなく外交による問題解決と、日中友好を基礎とした平和の維持を心から訴えたい。