「私と中国」(大阪城のこま犬との運命の出会いと日中友好)
2022年11月4日
私と中国
2022年11月4日

私から見る中国

作者:井上 章



 
                                    池田市日中友好協会理事長


 
                                       大阪府日中友好協会常務理事

 私は1950年、新中国が成立した翌年に生まれました。中国は厳しい社会条件の下、一致団結して新国家建設に取り組まれた。侵略を仕掛けた日本は、世界のどの国よりも、中国の前途に大きな責任を感じなければならない立場にあり、戦争に行かなかった私の父親もその責任を感じていた一人だったのかもと思います。<

 1960年代、市議会議員を務めながら日中友好活動に協力していた父でしたが、中学生だった私は自宅に届く人民中国を自然のうちに目にしていたのでした。今でも、その頃の切手が大量にわたくしの手元に残されています。丁度、文化大革命の時期ですが、負の部分については知る由もありませんでしたが、強大なエネルギーに驚愕していました。

 1979年に私も人に推されて、市議会議員に就任しました。小さい時からの中国びいきと恩師が事務局長されていたこともあり、日中友好協会には少し遅れて加入しました。現在は、池田市で理事長、大阪府で常務理事を、併せて、池田市卓球協会会長なども務めさせていただいています。

 1985年は、東京で開催された中国青年代表団交流会に参加しました。当時共青団の団長だった胡錦濤先生とお会いし、農業技術研修生事業の成功を感謝され、一緒に記念写真も撮らせて頂きました。現在、この写真は、中国への初心を忘れないようにと、我が家で一番目立つ所に飾っています。

 私が住む池田市は全国に先駆けて、1981年に蘇州市と友好都市を締結しました。私は前年に市議会訪中団の一員として初めて訪中するなど、市議会議員としていくばくか関与させていただきました。今日まで、蘇州市には何度も訪問させていただいていますが、今日の発展ぶりは目を見張るものがあります。

 

 同時に、卓球協会は締結に至る過程で、両市の友好関係醸成のために日中交歓卓球大会の池田市開催や複数回の卓球交流訪中団の派遣をはじめ、相互交流を繰り返し行いました。当時、会長をされていた小山藤兵衛氏の努力に改めて敬意を感じざるを得ません。1995年だったと思いますが、孫平化中日友好協会会長が小山宅を訪れ、子息と結婚されていた小山ちれ(何智麗)さんとともに歓談したことを記憶に残しています。過去の日中間のいろいろな思いを越え、孫氏の笑顔に感動しました。そうした流れを受けて、2017年に池田市日中友好協会は日中国交正常化45周年を受けて北京で開催された、日中友好交流都市中学生交歓卓球大会に蘇州の中学生とともに派遣いたしました。派遣にあたっては池田市、池田市卓球協会はもとより、市内の企業の資金協力も得て参加しました。卓球の技術はさておき、両市の中学生はスポーツを通じて交流し、協力して勝利に向かう姿が大切と感じてくれました。

 

 蘇州市にある寒山寺をご存じだと思います。唐時代の詩人、張継の楓橋夜泊の詩で日本でも有名な古刹です。藤尾昭池田市日中友好協会元会長の肝いりで、1979年から除夜の鐘を聴く会が提唱され、40年にわたり継続されています。毎年、交流団を派遣していますが日中交流の貴重な財産として今後も続けていかなければならないと考えています。(コロナのために中断しています)

 

 また、私は池田市ホームステイ友の会の顧問をさせていただいていますが、池田市日中友好協会は2000年から友の会の協力で上海にある同済大学日本語科の語学研修ホームステイの受け入れて20年になります。(残念にも一昨年昨年はコロナ禍のために中止となりました。)当初の20名程度から受け入れ家庭の関係で、現在では10名程度となっていますが、時々の学生たちの新鮮さに驚かされています。一昨年、当時の上海鉄道大学の研修で参加した学生が上海対友協の訪問団の一員として訪日され、「日本のお父さんお母さんは元気でしょうか」と声をかけてこられ、感動いたしました。他にも、研修後に池田市にある大阪大学に留学し、ホームステイ家庭と継続して交流されている事例もあります。ホームステイという生のままの日本を経験することが学生の将来と日中友好に大きな影響を与えているものと確信します。若者の相互交流・日本滞在はお互いを理解するうえで非常に有効なものと思います。「百聞は一見にしかず」です。

 ここで、同済大学で毎年作成される報告書から一つの文章を紹介します。

 *もう一つの世界との通信:街でも看板でも、家でも日本はいつも清潔で綺麗に感じました。私は日本のきちんとしたことを賞賛して、意識的に学び、注意を払うことに決めました。生涯学習の精神にもショックを受けました。私も将来多くの未知のことを学び続け、世界に対する好奇心を持ち続けたい。

 私たちの交流は20年という年月の間に、中国の国力が高まり、学生の日本に対する見方も大きく変わって来たと思います。同時に、日本人の中国に対する見方も変化してきました。しかし、たった一人の学生ですが、この学生は日本をまだまだ手本にしなければならないことがたくさんあると思ってくれました。私はそのことが我々の誇りでもあるし、日中の間で共有し、平和共存の精神を育てるために大切なことではないかと思います。

 一つひとつの芽は小さくとも大きな花となるように、両国の国家レベルの関係が不安定なときこそ、私たちの友好交流活動は小さいですが、両国の発展に大きく寄与することになるのではないでしょううか。