思えば、1980年10月に日本四国柑橘友好訪問団の一員として中国を訪れたのが、私の初めての訪中でした。その際、浙江農業大学で開催された中国農学会柑橘専門者交流会議の席上、私が農業柑橘技術研修生の派遣を提案したのが、現在の愛媛県宇和島市の日中友好事業の出発点になります。その話はトントン拍子に進み、翌年4月には、中華全国青年連合会より5名の柑橘青年研修生が派遣され、私のふるさと愛媛県吉田町の温かい協力の下、9ヶ月間の長期研修を成功裏に終えることができ、その時の胸躍るような感動を今でも昨日のことのように思い出します。
1985年は、東京で開催された中国青年代表団交流会に参加しました。当時共青団の団長だった胡錦濤先生とお会いし、農業技術研修生事業の成功を感謝され、一緒に記念写真も撮らせて頂きました。現在、この写真は、中国への初心を忘れないようにと、我が家で一番目立つ所に飾っています。
私は、普通の一農民ですが、1981年の初派遣以来、我が家にも毎年中国柑橘技術研修生を受け入れています。そして、その初代研修生の一人だった象山県出身の兪明振さんとは、帰国後も特に連絡を取り合い、そうした彼との関係性が、研修生の初受入れから10年後の象山県との友好都市関係樹立の礎になりました。
また、私は象山県の医療・消防の発展の為、吉田町議会の議員として吉田町を動かし、吉田町から象山県への救急車及び消防車の贈呈を実現しました。また中国の柑橘品種改良、柑橘栽培発展の為、30回以上に亘り、技術者を派遣したり、自ら技術者として赴いたりして、象山県の柑橘農家に技術指導を行い、その結果、象山県の柑橘類は次第に中国内で注目されるようになり、柑橘農家の収入増をもたらしました。現在、象山県の柑橘作付面積は7337ヘクタール、年生産量は12.5万トンを超え、2001年には、中国人民政府より「中国柑橘の郷」に選定されました。
30年間の継続的な親交により、昨年までの来日研修人数は合計で303名、日中政府民間同士交流は473名に達しました。訪中の際には、いつも心温まる友情ともてなしを中国の友人から賜っており、私も、これに対しては心で応え、一生を通じて返していくつもりです。
2005年9月、中国象山県と吉田町の友好交流の樹立と発展に寄与したことにより、中国浙江省象山県人民政府、象山県人民代表大会常務委員会の称号授与式において、「栄誉象山県人」の称号を、そして、引き続き、その翌年には、中国寧波市人民政府、寧波市人民代表大会常務委員会の称号授与式において「栄誉寧波市人」の称号を授与して頂きました。
2010年、北京人民大会堂で30年ぶりに全国人民代表大会常務委員会副秘書長の曹衛洲先生と再会し、曹先生から私達の日中活動を大いに褒めて頂きました。私のような平凡な日本の一農民に対し、このような栄誉を中国政府から頂いたことは、身に余る光栄であり、これ以上うれしいことはありません。
40年間私と会員は誠心誠意で日中交流にあたり、その結果、年齢、性別、学歴を問わず、中国にも多くの友人ができ、中には、子や孫程も年の離れた友人もいます。毎回訪中の際には、スーツケースに溢れる程のプレゼントを用意し、現地の風景より、「老朋友」達に会うのを楽しみにしているくらいです。
2018年、訪中からの帰国直後、私の地元、吉田町は西日本豪雨災害に見舞われ、多大な被害を受けましたが、その際も、中国の友人達が多額の「義援金」を届けてくれまして、その厚情に、胸が熱くなったのを、今でも鮮明に覚えています。
2020年、新型コロナウイルスの感染拡大により、全世界的に医療用マスクが不足した際も、再び中国から手を差しのべてもらいました。浙江省象山県人民政府及び企業から3回に亘って、マスク、手袋、防護服等の医療援助物資が届けられたのです。中国人は、よく「患難見真情」と言います。正にこの40年間の深い絆があったからこそ、本当の兄弟のような感情がお互いの間に醸成されたのでしょう。
2019年の訪中の際、私は、大学を卒業した孫を初めて同行させました。訪中前の彼は、自分の祖父がなぜ中国でこれ程多くの人に尊敬されているのか殆ど理解できずにいたようでしたが、現地に赴き40年間に築かれてきた友情に直に触れたことで、理解に至り、その取り組みを継続していくことの意義を強く感じとったようで、訪中後の彼は日中友好の後継者としてやる気に満ち満ちています。私も喜んで日中友好のバトンを彼に渡します。頑張れ!若者!
私は老人ですが、日中交流の気持ちはまだ若いです。日中友好の益々の発展を祈念し、中国の皆様、日本の皆様に深々感謝とお礼を申し上げる次第です。