1・初めに
2005年、私は陝西省西安市西北大学に語学留学で入学した時、陝西省の北部地域に山を掘って生活している人々がいることを知った。
また、この住居を窑洞と称することも初めて知った。親しい留学生、大学の関係者にも一度、訪れてみたい希望を伝えていた。
有る時、留学生食堂の一人の女子服務員が窑洞出身者であることを知らせてくれ食堂で会った時、希望を伝えた。彼女の名前は薜という。
三木;あなたはどこの出身ですか。
薜;陝北です。陝西省の北部地域です。
三木;そこは窑洞ありますか。
薜;はい。
三木;私は一度、窑洞の生活を見てみたいのであなたの実家を訪問してもいいかどうかお父さんに聞いてもらえますか。
薜;はい、わかりました。
2・窑洞出発に向け準備
その後、彼女は父親が快諾してくれたことを私に伝えた。
彼女の実家が西安から鉄道で北方にあり、绥德駅で下車すること、西安からは夜9時ごろの寝台列車に乗り、朝10時位に到着する列車があることを知り、彼女を介して12月10日土曜の朝10時に到着する列車で行きたい、父親の都合を確認したらOKだったのでその列車で行くべく、切符を手配した。
窑洞があるあたりは陝西省でも再貧困の地域であること、全く見知らぬ外国人が来ることへの不安から土産物に気を使い、当時、大学の留学生担当関さんにどういう土産がいいか尋ね、陝西省の白酒と果物、それも栄養が豊富な果物、例えばバナナ、リンゴ、みかんを推薦したので多めに持参することにした。
3・绥德駅到着
列車は予定通り西安を出発、軟座は硬座と違って楽だ。延安を通過してしばらくすると空も白くなってきた。绥德駅近くになると、山のふもとに沢山、山をくりぬいた土色の窑洞が見えてきた。
山には木が生えていない。多分雨が少ないのだろう。逆に雨が少ないから窑洞が成り立つのだろう。日本では春ごろに運ばれてくる黄沙で有名な黄土高原に位置する。
陝西省の北部に位置するので陝北と呼ぶ。
列車はほぼ予定通り10時に到着。西安から列車で13時間。出口で薜さんらしい男性に挨拶して今回のお世話に感謝した。その後、バスを経由し、細い道を登る。道路は石でできており、両側の壁はレンガ、ロバが石炭を積んだ車を引っ張っている。ロバが運搬手段だ。
道路と壁の境目に黄色い土ほこりがたまっている。なんとなく空気がほこりっぽい。
4・窑洞到着
やがて薜さん宅窑洞に到着、入口が穴二つ分、穴ひとつで奥行き二部屋、計4部屋分ある。隣家と接している。全面は広い空き地になっており、多分、作物の乾燥場だろうか。棗の木が一つ植えてあり、姫リンゴ位の緑の実がなっている。白い鶏が不審者が来たかのように身構えている。
中に入るとかまどが石炭で燃えており、奥さんが煮て作った小麦粉を穴が沢山ある麺製造容器に入れハンドルを回して糸状の面を押し出し麺を作っていた。かまどの火はオンドルとなって絨毯を引いた床を温め、煙突となって外部に排出する。そのほか、暖房に石炭ストーブを燃やしていた。
1時間後、麺をごちそうになる。自家製面、やや太い。地元の料理を腹一杯ごちそうになった。
部屋は二つ。入口にテレビとソファーがあるリビング並びに料理を作りオンドル上の寝室。ただし敷居はない。テレビは映りは良くない。
暫く、夫婦と会話を交わす。
家族は子供が二人。上の娘は貧しいので高校に進学せず、大学の留学生食堂で働いている。下の息子は中三で成績が良いので大学に行かせたい。
見ると部屋の壁に学校から送られてきた「成績優秀証」が何枚も貼られていた。
仕事は夫はレンガの製造に従事、妻は家事で子供思いであった。
午後、太陽が西に傾くと急に冷え込んできた。
夕食は粥(大米、小米、黄米、緑米)油餅、小さな羊肉が入ったジャガイモ炒めだった。
夜寝る前、主人が歯磨き用のコップ1杯の水、体拭き用のタオルを用意してくれた。多分、井戸だろう。水は貴重なのだ。用済みの水はバケツにため、庭の木に散水した。
夜トイレに行く。トイレは庭のはずれにある。旧式である。外気は零下10度、月は明るく一遍に目が覚めた。
5・共同生活
私が庭に出ると近所の子供が寄ってきて私の注文に応じ、恥ずかしそうに、嬉しそうにカメラに収まった。写真はすべて人数分だけ焼き増しし、薜さんに郵送した。
夜になって、近所の人が訪ねてきて日本の生活について聞いて来た。
私は便利になり、豊かになったが人の関係が疎遠になった旨を話したら、うなずいて納得していた。変化のない単調な生活の繰り返しだがそれさえ維持するのに精一杯の生活、貧しい生活ではあるが近所が助け合って生きている純朴な人たちであった。
翌朝、帰るとき、村人が見送ってくれた。西安までの帰りは長距離バスで帰ることにし、バス出発地まで友達が送ってくれた。
どこまでも親切、暖かい人であった。私は凝縮した、暖かい貴重な土産をもらって窑洞を後にした。