私は物心ついた頃から、父が作る餃子を食べて育った。今改めて思い返してみると、私と中国の最初の出会いは父の餃子だったと言えるかもしれない。
私の父は吉林省四平市で生まれ、9歳までをその地で過ごした。いわゆる旧満州の時代だ。祖父は当時小学校の教師で、福島県から満州に渡り、四平街小学校の校長をしていた。父や兄弟の叔父伯母たちにとって、満州で過ごした子供時代はとてもよい思い出として心に残っているようだが、歴史として当時の状況を振り返ると心中はとても複雑だ。日本の敗戦によって皆身一つで大変な苦労をして日本に引き上げた。
父の記憶では、当時いよいよ引き上げで四平を離れるという時に、小学校の用務員をしていた中国人のご夫婦が校長の祖父を訪ねて来て、手づくりの餃子を渡してくださった。父はそこで食べた餃子の美味しさが忘れられず、大人になってその時の味の記憶をたどりつつ、何とか再現してみたい、と自分で餃子を作るようになったようだ。
父の餃子はもちろん皮から作る。来客があると、決まって父が腕をふるった。子供の頃に、ご飯の上にぎっしりと焼いた餃子を敷き詰めた“餃子弁当”を作ってくれることがあり、私はそれが大好きだった。大学に進学し家を離れ、帰省すると必ず父の餃子を食べた。それは今でも変わらない。嫁ぎ先から実家に帰ると、今でもすぐに餃子を作ってくれる。なんとも気軽に手間を厭わず作ってくれるのが当たり前のようになっているのだが、そこに込められた父の愛情は餃子の味の記憶と共に、私の中に染み込んでいる。
私がまだ若い頃は、中国に関する情報に触れる機会もあまりなく、大好きな中華料理以外に中国についての知識やはっきりした印象も持っていなかったというのが正直なところだ。しかし今から15年前に、ある中国人姉妹と縁ができたことから、私の中国への関心と関わりは急速に深まっていった。
その大きなきっかけとなったのは、交通事故で意識不明になった岡山の中国人留学生呂さんのサポートだった。私は以前から事故や事件の被害者を支援する団体の相談員をしていた関係でその留学生のことで相談を受け、急きょ来日して付き添うお姉さんを支援することになった。本人の状態は重篤で、意識が戻ることはなく、いわば植物状態のまま病院での生活が続いた。事故の賠償金の問題、滞在ビザの期限、本人をどのように帰国させるかなど、様々な難しい問題が山積みだった。岡山大学の中国人留学生と共に、病院や弁護士との橋渡しに奔走したが、民間のボランティアではできることにも限りがあり、そこで頼りにしたのが岡山市日中友好協会だ。それをきっかけに私も友好協会に入会し、中国との友好活動に参加することになった。このことは、私にとって中国という国をさらに身近なものにした。
この後も、やはり事故で精神障害を患った岡山大学の研究員李さん、急性白血病で骨髄移植が必要になった程さんなど、大きな事案を支援する中で中国語の必要性を実感し、本格的に勉強をしようと思っていたタイミングでご縁ができたのが、故中山時子先生(お茶の水女子大学名誉教授)だった。
それはまさに本物の中国語との出会いでもある。中山先生は1922年生まれで、東京の青山学院女学校を卒業後単身北京に渡り、現地で中国語を習得された。自力で北京大学に入学を果たし、戦後日本に帰国後さらに東京大学で学んだ。日本の中国語教育の草分けで、本格的な中華料理を日本に初めて紹介したのも中山先生だ。中国の食文化や老舎の研究でも第一人者の大御所である。
幸運にもこの雲の上の存在のような先生とご縁ができ、「私のもとにすぐにいらっしゃい。あなたの発音をしっかり直してあげます!」というお手紙をいただいて、東京の中山先生のもとに岡山からたびたび赴くことになった。その頃先生はすでに85歳を越えていらっしゃったと思うが、日本人にいかに正しい中国語を教えるかについて、いつも真剣に考えていらっしゃった。発音には絶対に妥協しない。そんな先生に直接ご指導を受け、私はそこでようやく中国語の発音がどのようなものか、がわかった気がした。そのうちに、岡山でこれから中国語を始める人に発音やピンイン、基礎文法を教えるというチャンスをいただき、今も継続してクラスを担当させていただいている。中山先生のご指導により始めた週一回の中国語音読会も10年来継続し、私の生活の中で中国語学習は切り離せないものになった。
始まりは父の餃子だった。それが今では中国に関心を持つ人、中国語をきちんと学ぶ人を増やし、日中交流の輪を広げたい、ということが私自身の大きなテーマになっている。そして、もうひとつ。かつて中国人のご夫婦からいただいた餃子が、父の忘れられない温かな記憶となったように、私も誰かを笑顔にさせるような餃子を作れるようになりたいと思っている。