私と中国の出会い〜父の餃子〜
2022年11月4日
私と中国とのご縁
2022年11月4日
中国一辺倒になった自分
作者:光斎直樹

 若い頃は中国には全く興味がなかったのですが、50歳を過ぎた2004年合弁会社設立の為、中国駐在をする事になりました。中国語も一切勉強せずに何の偏見もなく広州市に乗り込みました。

 最初に改めて気付いた事は漢字には意味がある事でした。日本では宴会の最初に乾杯をしますが、「かんぱい」と言って宴会をスタートする意味でしかなかったですが、中国に来て解った事はお酒を飲む時は都度相手を探し、「干杯!」をして、漢字の文字通り杯を干す事でした。他にもなるほどと思う漢字がたくさんありました。次に感じた事は中国と日本の文化がよく似ている事でした。「中国人は正月(春節)には皆故郷に帰るのですね。日本と同じですね」と中国人の友達に話した所、その人から言い返されました。「日本と同じではないですよ。日本が中国と同じなんですよ!」。日本発祥の文化も多くあると思いますが、中国から伝わって来た文化が非常に多いです。そして、凄く良いなと思った事は日本では廃れてきている良い文化が中国にはまだまだたくさん残っている事でした。

 駐在を始め1か月後に仕事の都合で一人での滞在が1週間ほど続く事になりました。それまでは全てを通訳に任せていたのですが、どこで何を食べるかが大きな問題となりました。アパート近くを2往復し客家と書かれた小さな食堂に決心して入りました。入り口近くの小さなテーブルに案内され、メニューを渡されましたが、見てもわからず、適当に指で3つ指しました。何が出てきたかは覚えていませんが、食べきれなかった事を覚えています。2日目も同じ店に行き、事前に辞書で「この店の名物料理は何ですか?」と言うフレーズを調べてそれを見せた所、3人いた小娘がやって来て「こーだ、あーだ」と言われ、言われるがまま注文しました。蒸し鶏が美味しかった事を覚えています。3日目も小娘の言われる物を食べ、支払い時に割引のVIPカードをくれました。4日目はVIPカードを見せたら、今後見せなくても良いと言うような素振りをしてくれました。いつも食べきれなくて困っていたのですが、5日目は店の人が出てきて半分の量にする事を示され、値段も半額にしていてくれました。中国語は全然通じなかったですが、中国最高、中国人大好きと思った最初でした。

 駐在開始から1年が経った頃、初めて一人で日帰り旅行をしました。長距離バスで1時間以上かかる肇慶の七星岩と言う所へ行き、帰りのバスの中での事でした。私の座席番号は1番で乗り込んだ時その席に若い女性が座っていました。私がチケットを見せたら少し嫌そうな感じで2番の席に移ってくれました。私は日本から持って来ていた中国歴史小説を読み始めたのですが、その女性が英語で「日本人ですか?」と話しかけて来られ、私は中国語で「はい」と答えました。彼女は広州の大学2年生で、五一の休みに故郷で過ごし、広州に戻る時でした。いくらか時間が経った頃、故郷から持ち帰ってきたお菓子を広げ、私に食べるように誘ってくれました。さらに乗ったバスが広州行きではあったのですが、北バスターミナルと全然知らない所だった為、彼女はバスから降りた後、近くに停まっていた何台かのタクシー(当時はメータでは走ってくれなくて事前交渉)と交渉してくれて、安くてアパートの近くまで帰る事が出来ました。外国人という事もあるかも知れませんが、若い女性が見知らぬ中年男性に対しても親切にしてくれる、これが本当の中国なんだと思いました。2年前、コロナ禍の始まりの頃、日本への一時帰国からの戻りの時に蘇州の市バスの中で、当時マスク無しではバスに乗れなくなっていて、一人のマスク無しの男性がバスに乗り込もうとした時、運転手が乗車を断り、男性が困っていた所、乗客の中で女子高生らしき女の子が持っていた新品のマスクをその男性にあげたのです。四川地震の時の助け合いでもそうだったですが、この感動はすぐに微信の朋友圏に流しました。

 約15年間、中国の広州と蘇州で駐在し、昨年帰国しましたが、中国、中国人、中国文化、中国自然、中国料理、中国歴史、全てが好きになりました。今でも毎日、中国茶を飲み、昨年末は中国百科検定(2級の中国通コース)にも合格し、日中友好協会兵庫連合会の催しに参加し、中国語授業、二胡のレッスンも受けています。中国世界遺産は50制覇しましたがまだ6か所残っていますので、コロナ禍が収まったら、是非中国を訪問し、友達に会い、旅行したいと思っています。中日日中国交正常化50周年をお祝いします。