学生時代、時間ができると大学の付属博物館によく足を運んだ。その博物館には古代中国の収蔵品もあり、私は日本の古墳から発見された銅鏡を見るのが好きだった。文様の中に、青龍、白虎などの神獣や西王母などの神々が刻まれ、銅鏡の背面という小さな平面上に無限の仙境が展開されていて、古代の日本の人々同様に、遠い中国大陸への憧れを募らせた。
中国、この国は、常に私をわくわく、ドキドキさせる。始まりは、40年ほど前、文学好きの私の母が買ってきた一缶のライチの缶詰である。たまたま近くのスーパーで行っていた中国物産展で通りかかった母が買ってきてくれた。当時小学生だった私には、ライチという果物は見たことも聞いたこともなかった。母は缶詰から白い果実を取り出しながら、「これは、中国の唐の時代、楊貴妃という美人の好物で、唐の皇帝は愛する彼女のために、遠方から馬を走らせて届けさせたのよ。」と、熱く語った。皇帝の愛妃が好んだ南国の果物は、初めて体験する触感で、不思議な味がした。そこから、テレビで放送された「西遊記」や吉川英治の「三国志」、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」等、テレビや小説の世界で、わくわく、ドキドキさせられた。
大学は外国語学部の中国学科に入学し、大学2年の夏、ついに台湾へ1か月の短期留学をした。初めての外国の地は、太陽が一層眩しく、空気の匂いも日本よりきつく感じた。家屋の建築様式の違いや寺廟の色彩の艶やかさ、流れてくる早口の中国語、朝食は豆乳に揚げパンか饅頭、商店では飲料水がジュースより高級品等、見て聞いて食べてと異文化体験に興奮した。
また、現地で日本語を専攻する大学生たちとの交流は、私の中国語学習への意欲を駆り立てた。母国語以外の言語で自分の気持ちを相手に伝えることができた時の喜びは、自分自身が日本という殻を破り、一歩成長できた証のような気がした。
社会人となってからは、縁あって、香港で二年間日本語教師として勤める機会を頂き、1995年の秋に赴任した。イギリス領から本国復帰への準備期間中で、香港という都市全体がバタバタと慌ただしかった。私が赴任した日本語学校も、英語ではなく北京語の人材を探していて、私に白羽の矢が立った。
英語圏のスタイリッシュな高層ビルが建ち並ぶビジネス街、早朝からお年寄りが集う広東語飛び交う飲茶のレストラン、週末は公園で休日を楽しむ出稼ぎ労働者のフィリピンの人々、観光地に行くと無数の観光客の日本人等々、国際色豊かな都市だった。
1997年秋、香港での任を終え、私は帰途についた。途中、北京に寄った。故宮、頤和園、万里の長城等を巡った。どこも広大で、行けど進めどなかなか目的地に到着できない。日本、台湾、香港しか知らなかった私には、中国本土のダイナミックさを体感し、その規模に驚嘆した。そして、広大な領土を統治するという偉業に震撼し、この国の偉大さに納得した。。
中国、この国は、知れば知るほど更に知りたくなる。広大で、東西南北気候が異なり、自然も豊かで、世界を代表する絶景も多い。多種多様な民族や文化が繚乱し、春秋戦国時代の諸子百家に代表される膨大な思想、哲学が蓄積され、そして悠久の歴史がある。常に人々の探求心をそそる。
今、私は子育てを終え、昼はパート勤めに精を出し、夜は週一で太極拳教室と孔子学院の中国語講座に通い、そして毎晩の中国ドラマの観賞を専らの楽しみとしている。そして、この中国ドラマがすごい!次から次へと素晴らしい作品が生み出され、毎回私をわくわく、ドキドキ、はらはらさせる。美男美女の主人公に、色鮮やかな衣装と美しい風景、音楽、機知に富んだストーリー、そしてただの娯楽に終わらない根底にしっかりと流れる製作者たちの想い、中国だからこそ生み出せる作品たちだと思う。
今年、日本と中国は国交正常化50周年を迎える。私もちょうど3月に50歳となった。50年、私の人生も振り返るとやっとここまで辿り着いたという気がする。両国にとっても長い50年だったのではないだろうか。日本と中国は地理的にも近く、長い交流の歴史を持ちながら、お互いに辛く悲しい苦しい時期があった。それを乗り越えて、国交正常化50周年を迎えられることの喜びを、今年は今一度皆で噛みしめる時だと思う。戦争は恨みを募らせる。その恨みを人々の心から拭うには、生半可な努力では難しいことを私たちは経験している。だからこそ、戦争を起こさない、起こさせないことが重要であり、そのためにお互いが相手を思いやり、理解し合う努力を怠らないことが大切だと思う。交流がその第一歩である。人々が繋いできた中国との絆を、我々は次世代へと繋いでいかなければならない。更に50年後、国交正常化百周年の時にも、依然変わらず中国に夢中な可愛い百歳のおばあちゃんでありたいと、私は思っている。